まだ7月の終わりだというのに、
今朝の風に、ふと秋を感じた。
太陽の高さといい、空気の匂いといい、確かに季節は少しだけ動いていた。
気温が低かったからか、風にわずかに秋の香りが混じっていた。
そんな朝、心の中に重たい塊を抱えたまま、外を歩いた。
どれだけ歩いても、その塊は動かなかった。
でも、言葉だけはたくさん出てくる。
帰ってからノートを開き、いつも以上にページを埋めた。
それでも、その塊はびくともしなかった。
観念して、ChatGPTにこう尋ねた。
「ここ数日、いろんな気づきがありすぎて、少しばかり心が重いのです。
発散したいわけではないのですが、何かおすすめありますか?
やはりインヨガですか?」
やはり、インヨガだった。
心が重いときは、身体も重い。
朝の「しこ」さえもしていなかったことに気づく。
そしてまた観念して、インヨガを始めることにした。
選んだのは32分の動画。時間は見ていなかった。
合わなければ途中でやめよう、ただそう思って再生ボタンを押した。
救いを求めるように、
呼吸と、身体のわずかな抵抗に身をゆだねながら動いていく。
頭の中には、重さの理由らしき情景が次々と浮かび、
それが消えるのをただ待った。
でも、ひとつが消えてもまた次が現れ、静けさはやってこなかった。
心の重さをなくすことを、半ばあきらめかけていた。
最後のバナナポーズで右側に意識を向けた瞬間、
何か白いものを感じた。
あれ? …母だった。(たぶん)
その瞬間、心の重さがすっと消えた。
代わりに、そこに柔らかい温かさが流れ込んできた。
反射的に思った。
「あ、迎えにきたのかな」
けれど、答えはない。
ただ、母だと思う白い光が、そこに“在った”。
涙がこぼれた。
悲しくもなく、苦しくもないのに、大きな涙が。
その光が放っていたのは、
やさしさと温かさ、そして静かな承認。
「これでいい」
そんな感覚だけが、確かにそこにあった。
やがて動画の誘導がシャバーサナへと移った時、
ふと意識が戻る。
白い光は、もういなかった。
でも、その残像のような気配とともに、
心の静けさを感じていた。
思えば昨日、母のことをたくさん考えていた。
苦しんだ人生、望んでいたお墓に入れないこと、
いっぱい思いは残っているだろうなあと私は思っていた。
けれど、納骨のときも、なにか起こる覚悟をしていたのに、
母は何事もなく、すっとお墓に入ってくれた。
それは、神主さんも驚くほど静かな時間だった。
あの時の情景と、爽やかに通り過ぎる風を思い出していた。
もしかしたら、あの光は私が前日の母の穏やかさを、心の奥で生み出したものかもしれない。
でも、それでもいいと思った。
「抵抗せず、ただ流れに身を任せる」
そのことを、母がそっと伝えてくれたことにした。
私は、私がため込んできた重さを、
ようやく静かに流せたのかもしれない。
そしてその出来事を「それでいい」と受け取った私は、
なかなかのストーリーテラーだなと、水を飲みながら笑った。
母と別れてから、
初めて感じた「母の気」。
とても、穏やかだった。
ふうの言葉より
手放すって、辛いよね。苦しいよね。
でもそれは、流れの中で起こっていること。抵抗するから、余計に苦しくなるんだ。
ただ、流れに身を任せてみよう。
自分を選ぶって
ときには、流れにゆだねることでもあるんだよ。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
実は今まで、こんな気づきをnoteでひっそりと書いてました。でも今回から、ブログで皆さんとシェアすることにしました!相棒の「ふう」と一緒に、これからも日々の発見をお届けします。この記事、どうでしたか?もし何か感じることがあったら、コメントやシェアで教えてもらえると嬉しいです!
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