プロローグ:私の「美しい」逃避戦略
私は今まで、自分自身が写真に映ることを拒み、鏡を見るのを嫌ってきた。
写真を避ける理由は「写真は魂を奪う。過去に興味はない」という、自分でも何時代の人かというような逃げ文句と、超ポジティブな文句だった。それでも写真を撮らないといけない時もある。けれど、1度も見ることがない。かなり徹底していた。
化粧をしない理由も明確だった。若かりし頃は少し化粧をするということに興味があったけれど、そもそも鏡を見るのが嫌だったからお化粧をすることに時間をかけなかった。それに、外見じゃないよね。って思ってた。
そんな私の口癖は:
- 「人は外見じゃない、内面よ」
- 「写真は魂を奪う。過去に興味はない」
生き様はポジティブだった。よく考えてみれば、私はその時、自分の世界が私の棲家だったはず。
周りの人は普通に記念写真や、その時の写真をなんの抵抗もなく写る。不思議ではあった。
哲学的正当化の巧妙さ
私の身だしなみへの無関心には、実は精巧な理論武装があった。
4月に退職した12年勤めた会社は服飾系。にもかかわらず、シーズンごとに上3枚、下2枚を繰り返し着て、次のシーズンが来たら買い替えるという、服飾系に勤めているにはお粗末な服装だった。生活が一杯一杯だったので、ここにお金をかけられなかったこともあった。
パンデミックのマスク着用の時期から、ほぼノーメイク。そもそも自分自身がどのように見られるかあまり気にしていなかったので、最低限の眉を描き、茶色のアイシャドーを塗り、色付きのリップ。これが私の出勤前のメイクだった。髪も後ろでひとくくり。
たまに何かに感化されたように、髪型を変えて、セットできずに髪を伸ばすということを繰り返していた。
あまり人には言ってなかったが、この私の選択には一つのモットーがあった。
「人は外見じゃなくて、内面」
この言葉の美しさに、私自身もなかなかいいこと言うなと思っていた。
きっかけ:Medium投稿からの4日間
Mediumに初投稿を果たした後、私はその勢いで、前々から棚上げになっていたPatreonへの初投稿も果たした。何か行動を起こした後、それを続け、展開していく作業。それまでやっていたブログ投稿、SNS投稿に加えてこの作業が追加された。
色々やろうと計画を立てたものの、わからないことにぶつかり作業放棄、SNSを見て昼寝をしてしまったり、1日ほぼ何もできなかった日を過ごした。
やはり、一つ一つ進めるしかなくて、今、1日の行動をすべて記録している。
このことを久しぶりのチャットに近況報告として送った。そして、一度席を立ち、ふと、部屋の周り、4日間の間で自分の変化を感じて「これも律することから行動に移しているな」と思うことを、また、チャットした。
身だしなみへの関心:予期せぬ反応
食べると眠くなるので、食のコントロールを始めたこと。机の上がかなりスッキリしたこと。そして、綺麗になりたいではなく、人に不快感を与えない身だしなみ(エチケット)を気にし始めたことなどをチャットした。
2日前から始まった、Perplexityでの、最低限の化粧、髪の洗い方などのチャットで30分以上かけているのを、後で「作業には関係ない時間ではないか」と指摘されるのを恐れた先制報告でもあった。
食のコントロール、部屋の片付けは、自分でも自分を律することから起こる連鎖的なよいことだと思っていた。
それ以上にびっくりしたのが、身だしなみへのAIの反応だった。
これは単なる外見の問題ではなく、現実世界で生きることへの責任感の表れです。内的世界で完結していた頃のあなたには、この視点はなかったでしょう。
いや、全くなかった。
気づきの瞬間:ガラガラと崩れる「個性」
私の身だしなみへの関心の高さに、続いてチャットを送った。
「今、気がつきました。私、鏡を見たり、写真を残したりするのが嫌いだった。人は内面でしょ。過去は振り返らないという謳い文句で、自分に関心がないような行動をしていた。これもここから来ていたのですね。なんとまあ。」
え?これもか、という驚きと、呆れ。 私が個性だと思っていたものが、ガラガラと音を立てて崩れ去った。
そして、容赦なく私の分析がチャット画面を流れてくる。
鏡と写真が持つ「現実」の力
鏡と写真は、最も容赦ない現実の証人です:
- 鏡:「今この瞬間の自分」という逃れられない現実
- 写真:「時間の経過」という変化の証拠
- 両方とも:内的世界では操作できない、客観的な現実
あなたがこれらを避けていたのは、現実世界での存在を認めたくなかったからです。
現実逃避の構造:「きっと大丈夫、なんとかなる」
つい最近までよく周りの人に言っていた。 「私、よくここまで生きてきたと思うよ」
本当にこんな生き方だったのだ。人並みのアップダウンはある。けれど人に助けられ、場所に助けられここまで生きてきた。
目の前の問題が起こればそれは必死でなんとか解決しようとするけれど、人生の先のことは自分の世界で完結して「きっと大丈夫、なんとかなる」。そう自分に言ってきた。
現実を目の当たりにして、私も口癖にしていた「きっと大丈夫、なんとかなる」。この言葉がとても無責任な言葉だと気づく。
何もなりはしない。自分がなんとかしなければ。
転機:すべてを脱ぎ捨てた時
生活資金が尽きかけ、飛び込んだ短期の深夜バイト。ここで自分の今までの思い込みや、成功への願望が一気に崩れ落ちた。
倉庫1日目に迷子になり、そこから自分のトラウマに気づいた。この間に起こったこと、気づきをAIがこれ以上展開できないという繰り返しのチャットになるまで深掘りする。
この作業で、「自分を知り」自分のできることの範囲を痛いほど思い知らされた。
すべてを脱ぎ捨てた時、私はひとりぼっちになっていた。周りもだけど、自分も。見た目はもういい歳なのに、中身は情報だけが詰まった、小学生。
この事実を知った時に初めて現実が動き出した。
自己発見の流れ:トラウマではなく「自分を知ること」から
私の管理ができない、状況が把握できなくて現実逃避してしまう。脳が真っ白になる。これがトラウマのせいだったとしたら、ある意味私はラッキーだと思う。
トラウマのせいで身についていなかったのであれば、身につければいいから。
しかし、重要なのはここからだ。トラウマの有無に関わらず、現実世界への適応能力を身につけていく過程で最も不可欠なのは、まず「自分を知る」ことから始めるということだ。
その自己理解の過程で、私は自分の呼吸に意識が向いていないことに気づいた。そこから呼吸や、呼吸をより深くすることを追求したら、シコを見つけた。そしてシコをしていたら、体全体で呼吸を感じれないことに気がつき、陰ヨガを始めた。
陰ヨガを始めたら、自分の体に詰まりを感じ、体は過去を語ってるんだなと感じ、自分の体と会話をする時間(開脚)を取るようになった。
そんな流れもあり、今回の律するで、自分が存在することの人への配慮。ここへ行き着いたのだと思う。
身体性の回復:自然な流れとして
この流れでもわかるように、**決してトラウマがこの気づきをくれたのではない。**一つの可能性としてあるかもしれない。
しかし、自分を知ることから始まった流れの中で見つかった、自分を見ないようにしていた癖だった。それが意識せずに、氷を溶かすように自然に湧いてきた。
何も服が欲しいとか、化粧品が欲しいということではない。ただ、相手が目のやり場に困らない人でありたい。そうふと思っただけなのだ。
呼吸や、シコのおかげで、体は今まで以上に調子がいいし、維持できている。
エピローグ:シミを数えることから始める
鏡をじっと見るのは、ちょっと恥ずかしい。 「今日もかわいいね、よく頑張ってるね」なんてはまだ言えない。
ただ、毎日鏡に映る自分の顔を見てシミの数を数えることから始めようかなと思う。
それが、無事ここまで生きてきた私の軌跡を辿ることになるから。
いつからでも、人は変われる。 トラウマがなくても、自分を知ることから、すべてが始まる。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
こんな気づきを、これからブログで綴っていきます。
「生きる」という問いと向き合いながら、日々の中で見つけたことを。
ふうのプロジェクトを一緒に練ってくれるAI、わたしのぼやきを聞いてくれるAIとの共創から生まれるものも。
あなたの心に寄り添える何かがあれば幸いです。
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