お名前ストーリーは最強だった。

あなたは、自分の名前好きですか?

好き、嫌いなんて考えたことない?

それってすごく幸せだと思う。

集団生活をするようになると
必ず、持ち物には名前を書くし、
毎回のテストにも名前を最初に記入する。

大人になったって、証明書や
人生を左右するようなものすべてに、
名前を好きだろうが、嫌いだろうが
名前を自分で書く。

名前が嫌いだと、その度に
いやな思いが積もっていく。

名前が嫌いだと大変なんです。

ふうでごうはそんな人の一人。

最近まで、名前を呼ばれるのが本当にいやだった。
特に、下の名前。

大人になると、書類を書く時以外は
あまりフルネームを見ることも
書くこともなくなったから
名前が嫌いだということを忘れてしまうことも。

時の流れの中で、名前が嫌いだということも洗い流せる、
年をとれば、自然に受け入れられるようになるかもって思ってた。

名前を自分自身のものだと認めて、
好きになるということは、何かの拍子に、何かのついでに、出来ることではなかったようです。

そうこうしていたら、
自分の名前としっかりと向き合う出来事が降ってきた。
そう、切羽詰まった状況ではなかった。
突如、その時が来て…(あ、強制的じゃないですよ)
まあ、逃げようと思えば逃げれたんだろうけど、
なぜか、その時は
素直に向き合おうとできた。

実は、この名前と向き合う全く同じ作業を、4年前にもしたことがあったのです。
その時は、名前が嫌いだということに
しっかりと向き合わず、
ぺらっと撫でるように終わらせました。
この作業がこんなに意味のあったことなんて…
4年前の自分に言ってあげたいです。
“自分の名前を好きになるって本当に大切なんだよ。ちゃんとやってみな。”
ってね。

4年前といえば、このブログを始めたころ、
Fudegoふうでごうという名前をつけて、
“ふうでごう”って名前が気に入って、
SNS上で自己表現を始めたころで、
好きな自分の名前ができた、喜びが先にたっていたので、状況としては仕方なかったのかもしれません。
自分の名前がどんなに大切かということが分かっていなかったんですよね。

思い返してみれば、別の名前を使うというのも、ある意味、いい方法なのかもしれません。
だって、ブログをはじめるという行動を起こすことができたのですから。

けれども、どこかで自分自身とふうでごうのズレは生じてくるかもしれませんね。

それに、物事にはやはりタイミングというものがあるのかも…

さてさて、ふうでごうのやった作業。
どんなことをするのか、気になりますよね。

簡単なんです。

小学校の時に自分の名前の由来を
調べるという宿題をしたことありますか?
由来というか、どういう想いで名前がつけられたか。
記憶が正しければ、授業参観の時に発表したような…

ふうでごうがやった作業は、これの自分で勝手にバージョン。
誰かに聞いて、自分の名前への想いを思い巡らすのではなく、

自分で名前の漢字一つ一つ意味を調べたり、
音から心地のいい意味をとってみたり、
自分勝手に気に入った漢字のそれぞれの意味をつなぎ合わせ、
(順番も好きなように変えて大丈夫!)
自分で都合のいいようにストーリーを創るのです。

そして、その文末に

「という生き方をする○○〇〇です。」
と締めくくるのです。

この出来たストーリーを毎日繰り返し自分に刷り込む。

そう、嫌いだった名前。 その名前を呼ばれて、
イヤーな気持ちになった記憶。
その記憶の上に、心地のいいストーリーを上書きするのです。

そりゃあ、最初はなんだかちんぷんかんな文章かもしれません。
だって、今まで自分の中になかったストーリーですし、
ちょっとした抵抗はありますよね。

でもね、その文章には自分が一つ一つ調べて、気に入ったイメージをのせていますから、
とてもパワーがあるのです。

そうそう、一度つくったものがなんかしっくりこなかったら、
書き加えたりしてみてもいいかも。
ふうでごうも、より心地がいいように何度か作りかえました。

自分の名前の漢字たちや音たちの意味を調べながら
新しい発見があったり、妙に納得したり、
時間ではなく、深く関わる。

ことがもうすでに、自分の名前に自分で
新しい息吹を与えているのだと思います。

これ、不思議なことに、ふうでごうが
薄々気がついていて、
でも抵抗していた働き方、生き方の
お名前ストーリーになったんです。

このことは次回にまわしますが

ふうでごうの自分を好きになる、愛おしく思える。
その過程はとても長く、どこまでも続くのだと思います。

数か月前にやっと自分の名前が愛おしくなったら、また次の問題が起こる。
人生って自分発見の旅なんでしょうね。

何かしらの課題を持ってこの世に生まれてきている…

というのはまんざらではないかもしれません。

思い出をきれいに洗い流すことはできないかもしれないけれど、
都合のいいように勝手に上書きすることはできる。

脳を自分で都合よくだますことができる
ということを実感しました。

今は、自分の名前を呼ばれると
たまに、ニコニコしていまう反応が
自分では気になりますが笑

そうはいっても、上書きは最近で、
日々自分の状態は微妙に違いますよね、
だから、意識していないとき、
名前が好きだという認識は変わらないのですが、
ふと、名前に微妙な反応をしてしまうことがあります。

毎日、自分のお名前ストーリーを読んで、体に沁み込ませて、
名前を書く時、名前を呼ばれた時、
お名前ストーリーそのもの、
お名前ストーリーを読んでいる時の心の温かさなど
思い出せるようになると昔の感情に戻ることも少なくなります。

自分の名前が好きになると、
今日ここに存在できること、
今までの出来事などすべてのことに感謝できるようになりました。

このような気持ちの変化から
少しずつですが、
停滞気味だったふうでごうの追い風が吹き始めたのです。

周りの人にそう見えてなくても、そう思うというのは大切です笑

このブログを再開できたのもそう。
Keitaro Matusmoriを全面的に応援しよう
と決意したのもそう。
他にもいろいろありますが

やっと、自分の人生を自分で舵をとれだした!
という感じがしてなりません。

だって、今まで名前はあったのですが、
自分の中では否定していたので、
名無しだったのです。
これを想像したとき、なぜか
宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』の
カオナシが頭に浮かんだのには
ちょっとわれながら笑いましたが。

カオナシならぬ名無し
名無しならぬカオナシ

いやいやそんなことを書くためにこの体験を
お伝えしたわけではなく、

自分を見つめ知ることは長い旅で
自分の心の詰まりを取るのは
一人一人、タイミングがあり
それぞれ課題がちがうし、解決の糸口も
ちがうのだということをお伝えしたかったのです。

自分の外に解決する糸口はあっても、
誰かに誘導してもらったとしても、
自分を知るには自分で深く向き合うことが鍵だと思います。



ふうでごうの投稿がどなたかの役に立てれば幸いです。


最後までお読みいただきまして、
ありがとうございました。

では、また次の投稿でお会いできるのを
楽しみにしております。

     

風を感じて一人あるき。

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